2016-3-1 UPDATE

超能力の証拠を排除するもの

超能力の証拠はなぜ見つからないのか。
目の前にあっても、気づかないだけなのか。
気づかせないのは、誰の仕業なのか。

超能力が実在する証拠はどこにも無い、したがって超能力を研究することは全く無意味である。予知やテレパシーを認めない科学者がよく使う論法です。確かに「これが超能力の明確な証拠」と言えるだけのものは見つかっていないようです。

では、少し考え方を変えてみましょう。大きな地震が起こった後で、「地震の数日前に動物たちが異常に騒いでいた」「いつもは静かにしている家の犬がよく吠えていた」「町から野良犬の姿が消えた」等、思い返せば地震の予兆だったかもしれない出来事の話が聞かれます。地震の前には、動物の異常行動と地震を結びつけて考える人はいませんでしたが、地震後はそれが変化する。つまり何事も、それが証拠と思わなければ、証拠にならないということです。超能力が実在する証拠が無いのではなく、ちゃんとあるにも関わらず、それに気づいていないだけかもしれません。

では気づかれてはいないけれども、超能力の証拠になりそうなものは何でしょうか。どこを探せばいいのでしょうか。上の地震と動物の行動の関係から考えると、普通とは違った現象が手がかりになるかもしれません。いつもとは少し異なること、通常ならありえないこと、何かおかしいこと……そうした出来事が探し求める「証拠」なのかもしれません。「でも、そんなに変わった出来事なんて、そうそう出会わないし、第一おかしなことは覚えているはず」という人もいるでしょう。でも、その考え方にはひとつ落とし穴が隠れています。超能力が実在する証拠はどこにも無い、したがって超能力を研究することは全く無意味である。予知やテレパシーを認めない科学者がよく使う論法です。確かに「これが超能力の明確な証拠」と言えるだけのものは見つかっていないようです。

私たちは普段、日常という環境の中で暮らしています。いつもと変わらない、ありふれたことしか起きない、確かな現実としての日常です。そこでは常識が尊重されるあまり、おかしなことは積極的に排除される傾向にあります。つまり私たちは「少し変だな」と思うことがあっても、すぐに「何かの間違い」と思ってしまい、変だと思ったこと自体を忘れてしまうのです。もちろん記憶にも記録にも残りません。

いつも当たり前のように使っているケータイやテレビのリモコンが、ほんの少し動作がおかしくても、その原因を追及しようという気持ちにはなりません。もう一度操作すれば、普通に動いたからです。「さっきのはどこかおかしかっただけさ」と納得して、そういうことがあったこと自体を忘れてしまいます。でもそれが、何かの「証拠」なのだとしたら? 証拠は目の前にあったのに、それを捨ててしまっているのに、「超能力の証拠など無い」と言っている私たちの意識とは何なのでしょう。

超心理学者の中には、超能力など存在していては困るという人々の無意識が、超能力が現実に現れるのを阻止しているのではないかという説を唱える人もいます。