いつから人間は「意識」を持つようになったのでしょうか。
「意識」は本当に人間に必要なものなのでしょうか。
古代人と<二分心>を巡る大胆な説を紹介。
「あなたに意識はありますか?」と聞かれれば、誰もが「当然です」と答えるでしょう。では「日常生活に意識は必要でしょうか?」と聞かれたたら、どうでしょうか? 「寝ているのでなければ、常に意識がある状態なのだから、自分の行動と意識は切り放せない」と言う人もいるでしょう。でも中には「毎日の行動の中で、意識せずにやっていることもあるような気がする」という人はいませんか?
例えば家から駅までの道のりで、一歩一歩、歩く全ての足の動きを、あなたは意識して行っていたでしょうか。「まず右足を踏み出して、次に少し遅れて左足を後方に踏み込んで前に進んで……」という風にしている人などいないはずです。また自転車に乗っている時、全ての自分の動きを意識していたのでは、すぐに転んでしまいそうです。スポーツをやっている人なら、コーチから「無心になれ」と教えられた人もいるはずです。ピアノ奏者が流れるような演奏をしている時、指ひとつひとつの動きを意識しているとは思えません。意識は時に邪魔になることがあるし、人間は意識しなくても、全く困らないことがあるのです。素晴らしい大発見や優れたアイデアを思いついた人が「ある時、ふと頭に浮かんだんだ」と言うケースも少なくありません。
こうした問いを踏まえて、一冊の本を紹介したいと思います。『神々の沈黙ーー意識の誕生と文明の興亡』(柴田裕之訳、紀伊國屋書店)という本です。著者のジュリアン・ジェインズ(1920〜1997)は、「意識とはそもそも何なのか?」という問いからスタートし、思考の果てに「人類は3000年前までは『意識』を持っておらず、脳の右半分で『神々からの声』を聞いて、それに従って生きていた」というとんでもない説を論じていきます。3000年前と言えば、既に世界各地で古代文明が華開いていた時期です。そうした文明の担い手だった人達が「意識を持っていなかった」というのはどういうことでしょう。
ジェインズは古代ギリシアの叙事詩『イーリアス』に注目します。そこに登場する英雄アキレウスやアガメムノン王は、しばしばギリシアの神々からの言葉に耳を傾け、自らの行動を決めていきます。テキストをよく調べていくと、「意識」とか「精神」を示す単語が出てこないのです。さらに現代の私たちには自明の「自由意思」という概念が出てこないと、ジェインズは分析し、その頃の人々は神々の声を聞く<二分心>を持っていたと推測します。
しかし文字の普及により、人々は次第に現代の私たちと同じような「意識」を獲得していき、やがて神々の声を聞かなくなっていった……ジェインズは『イーリアス』の後日談である『オデュッセウス』や、神の声を聞いた預言者たちの姿を描いた『旧約聖書』の記述を分析しつつ、古代文明のありようと、<二分心>から意識への推移がどのようなものであったかを大胆に論じていきます。もちろんジェインズの説には賛否両論がありますし、意識の問題だけにタイムマシンでもない限り「はっきりとした証拠」を示すことはできません。しかし人間の意識の問題に関心のある方は、ぜひ本書を手に取ってみてほしいと思います。そして人間にとって最大の謎といってもいい「意識の問題」について、考えてみてください。