腐敗臭が病気を引き起こすと考えられた中世では、
逆に強烈な香料が健康維持の欠かせませんでした。
匂いの力を、人々はどう考えてきたのでしょうか。
中世ヨーロッパで猛威をふるい、2500万人(当時のヨーロッパ人口の4分の1)が犠牲になったとも言われる「黒死病(ペスト)」。現在ではペスト菌による感染症であることが分かっていますが、当時の医学関係者は「空気の腐敗」が原因であると考えていました。衛生状態も悪かった時代、腐敗物や死体からたちのぼる「悪臭」は恐怖の対象として恐れられました。「ペスト患者の吐く息はニワトリを殺す」とさえ言われ、人込みの中で少しでも腐敗臭を感じようものなら、ちょっとしたパニックになったようです。
人々は悪臭に対抗するために、こぞって芳香性のものを身につけました。香水をはじめ、薬に薬草、お酒など、「強い匂い」のするもので、悪臭がもたらす病魔を押さえ込もうとしたのです。その傾向は、入浴を禁止するというまでに至ります。風呂に入ることで毛穴が開き、有害な大気(悪臭)を体内に取り込んでしまう! というわけです。風呂イコール不健康というのが常識だったというのは、風呂好きが多い現代の日本人の感覚からすると信じられないことです。
悪臭に対抗しうる優れた香料(スパイス)は、価値あるものとして珍重されるようになります。ジャコウ、リュウゼンコウ、アロエ、シナモンなどは特に高価で取引され、その香りを身にまとうことは上流階級の特権となりました。また香料は食物の腐敗を抑制するものとしても重要視され、肉や魚がショウガ、クローブ、カルダモン、ナツメグなどで香りづけされました。大航海時代にヨーロッパが求めたのがアジア産のスパイスだったことを歴史の授業で習ったことを覚えている人も多いでしょう。科学的な根拠はともかく、歴史的には「匂い」が人々にとって重要な感覚であったことは事実です。
最近の研究によると、生まれたばかりの赤ん坊は、匂いによって母親を識別しているようです。まだ目も十分に見えず、声も聞き分けられない乳児が、嗅覚に頼るのは当然かもしれません。またマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』では、「紅茶にひたしたマドレーヌの香り」から、懐かしい記憶が甦るという描写があります。
小さい頃に訪れた田舎の祖父母の家の土間の匂い、キャンプに行った時のカレーライスの香りなど、ある記憶と匂いが深く結びついている経験は、誰にもひとつくらいあるのではないでしょうか?
しかし現代に生きる私たちはどんどん匂いを消し去る傾向にあります。若者は自分の口臭や体臭を気にかけ、かといって強すぎる香水も嫌われています。できるだけ「無臭」であることが重視されているようです。もっぱら視覚(と、せいぜい聴覚)による情報が重要で、匂いによって世界とつながるという意識は極めて薄いようです。
「あの人が来ると、匂いで分かる」などと言おうものなら、「差別だ!」と言われかねませんね。
一方で、アロマテラピーが人気を集めたり、紅茶やワインの芳香を楽しむ人達もいるように、匂いを100%絶っているわけでもなさそうです。時には「素敵な香り」を楽しみながら、嗅覚をきちんと機能させることも忘れてはいけないのでしょう。